真桑瓜(まくわうり)は、
学名Cucumis melo L.var.makuwaMakino、中国名は、甜瓜(テンクワ)又は香瓜(クアングア)と言い、句の季語として真桑(マクワ)・真瓜(マクワ)を用いることがあります。
原産は、西アフリカ説、中近東説等諸説がありますが、その後は中央アジア、中国、朝鮮半島を経て日本に渡来したとする説が有力です。
その歴史は古く、日本各地で縄文時代・弥生時代の遺跡から、既に瓜の種子が発見されているのです。 また、古い文献上では、「古事記」(712年頃)を始め、「万葉集」(759年頃成立)「倭名類聚抄」(937年頃)「枕草子(1000年頃」等に熟瓜(ほぞち)、宇利、宇理、うり、との記述があり、日本人が古くから、夏の清涼果実として瓜と深く関わって来たことを、物語っています。
故郷の誇りとして、私達が大切に守り続けている、昔品種の「真桑瓜」(芳香美味、俵形、表皮は平滑で黄色に黄緑色の縦縞、果肉は淡黄緑色)が何時頃から歴史の表舞台に登場してきたかを考察してみますと、史上最初に見られるのが「御湯殿のうえの日記」で、織田信長の献上にまつわるもので「みののまくわと申すめい所のうりとて」(1975年6月)、「あふみのまくわうりとてのふなか一こしん上」(1575年7月)、との記述から、この時、既に真桑産の瓜が有名になっていたことを、伺い知ることが出来ます。旧家安藤鉦司氏方に所蔵されている「織田信長より京都所司代村井貞勝宛の指示書き瓜送り状」(1581年6月)「真桑瓜十籠」との記述があり、史上初めて、「真桑瓜」との固有名詞がが見られて興味深く、この時が「真桑瓜」の名称が誕生で、織田信長が命名者であったかも知れないと思うと夢が膨らみます。
人の交流が盛んであった戦国時代を背景に、多くの地方品種(和名及び方言で百数十が確認されています。)が栽培されている中で、「真桑瓜」は、香りよく大変に美味しい、「瓜の中の瓜」であるとの名声とと共に日本各地へ急速に広まり定着して、遂には、和名の代表の座を得るに至ったと考えられます。
徳川幕府が確立してからは、生ものの「真桑瓜」及び「種子」を、時には中断しながらも、本巣市(旧真桑村)の栄誉として、将軍家への献上を幕末(1867)まで長きに渡り続けられました。その後も、昭和30年(1955年)頃までは、夏の清涼果実の王者として400年近く君臨し続けていましたが、プリンスメロンを始め、新品種の誕生と、嗜好の変化によって急激に「真桑瓜」の栽培は衰退し、一時は、絶滅の危機に直面いたしました。そこで、心有る人々が立ち上がり、平成2年(1990年)に「まくわうり栽培研究会」発足させ、牧野富太郎博士によって、学名に「真桑」の名を残すこととなった、「真桑瓜」の古里としての誇りと愛情を持って、保存継承に情熱を傾けております。
芭蕉自画替真桑瓜 芭蕉真桑瓜句碑
十六世紀中頃までに、誕生したと考えられる、地産原種の「真桑瓜」の種子は、韓国、中国始め諸外国で発見出来ませんし、「真桑瓜」に関する多くの古文献が真桑の地で誕生したとしていること、また、地元で伝承されている「五位鷲が運んできたとする説」も「天から降ってきたとする説」も荒唐無稽と決め付けるのではなく、この地で誕生したのではあるが、何時如何なる事由によるものか明確に出来ないために、感謝の意を込めて、天からの授かりものとしたと解することが出来ます。
日本では、メンデルの法則(1865年)が発見される以前から交配による品種改良を行っていた実績もありますし、選抜育苗の知識も持っていました。参考までに、「真桑瓜」の進化を物語る古文献を紹介しておきます。
毛吹草(1645年)の一句・・・・・
「味のよき たねやあつめて まくわ瓜」
わらんべ草子(1660年)の一節・・・・・
子七太夫・・・声変わりの頃は白瓜太夫といわれたが、声も立ち上手になられしを、今はまくわ太夫といひし也。まくわじゅくしてよきと伝」
以上の観点から、改めて「真桑瓜」の種子が、本巣(旧真桑)の地に誕生したものであると考察できますし、何百年にもわたる、選抜育苗と少しの突然変異の繰返しによって、「真桑瓜」が創り出されたことを思い起こしますと、先人達の努力に畏敬の念を抱かずにはおられません。
*まくわうりの寒天
*まくわうりのシャ-ベット
*まくわうりの羊羹
*まくわうりのゼリ-
*ドレッシングサラダ
*中華炒め
材料/まくわうり 1個